日本人とストライキ

みなさんはストライキに参加したことがあるだろうか?

私は公務員時代に29分だけ参加したことがある。昭和の終わりを告げる頃だった。

30分を超えると処分対象になるからとその時間だけ、始業時刻から行った。

多分、ヘルパーさんや運転手さんの現業従事者の地位保全のためだったと思う。

昔の高齢者・障害者福祉のヘルパーは、公務員か社会福祉法人等の正規職員が行っていた。

その人件費の高さからこれを削減して、民間事業者に委ねて、今の福祉がシステム化されている。

日本もかつて、今の北欧のように公務員達が介護ヘルパーを務めていたのだ。

現在では、給与の低さから成り手不足でのために、介護ヘルパーやその事業所は減少の一途をたどる。

その後、地方自治体では公立保育園の保母さん達も公務員から民間事業者の参入に委ねた。

近年、民間保育園の保母達による、園児の虐待や送迎バスへの置き去りが報道されているが、遠因はこういうところにあるかも知れない。

さて、2023年に60年以上振りに、池袋西武デパートがストライキを行った。

デパートのオーナーが変わり、再建計画に家電量販店が入ることとなった。これに伴い、デパート売場が減少して、従業員が削減されるからである。

将来の従業員の人員削減に備えたのだ。

目を転ずるに、アメリカでは史上初の三大自動車労組が、初の合同のストライキを打った。

全米自動車労連は今後四年間で、40%の賃上げを求めている。インフレによる生活費の高騰のためと電気自動車シフトに伴う製造工程の簡素化からこれまた人員削減を行わないように雇用を確保するためだ。

会社側は27%の賃上げを認めたが折り合わず、ストへと突入した。

また、ハリウッド映画の脚本家や俳優らがAIによる制作や配信サービスの権利使用の対価を求めたストライキも行われている。

これは終結に向けた話し合いが報道されているが、一時はハリウッド映画が作られていないという、由々しき事態となっていた。

また、以前に一月頃に欧米諸国に旅行すると、バスや電車、アリタリア航空やエールフランス、ブリティッシュエアウェイズといった国営企業までもストライキしているのに驚かされた。

これは意外にも国民も受け入れていて、表だって文句は言っていなかった。

そして日本はどうか。

日本人の給料は30年横ばいだった。

欧米諸国は右肩上がり。韓国も日本を抜いた。もちろんこれらの国は景気も良いが、組合活動も強い。デモやストライキもよく行う。

世界的には、先ほどの生成AIによるコンテンツ作成や事務作業、電気自動車シフトによる自動車工業の変化は大きく人員削減を抱き合わせる可能性がある。

日本の労働者の未来予測では、これから労働者の賃金は数パーセントの雀の涙位しか上がらないものが出ている。欧米諸国に比べて、一桁違う形なのだ。

もちろん岸田政権は賃上げを促すために税制で優遇策を提出するという。

しかし政府が賃上げを企業に促すというのも、労働者の権利行使が無いことを見越した風で、変な話しである。

これから10年、20年、我々の賃金はどうなっているのか。

日本の労働者はデモやストライキ等で賃上げを求めることはしないのか。

賃金が上がらないと年金も上がらない。

海外ではどうなるのか。

これからも見続けていきたい。

小津安二郎「秋刀魚の味」

実は小津安二郎はよく知らない監督だ。もちろん、彼のあまりにも高い評価は知っている。

しかしながら、以前は正直いって、作品を観てもあまり面白いと思わなかった。むしろ退屈で、同時代の黒澤明の作品の方が分かりやすくて、観やすかった。

例えば超有名な「東京物語」もそうだが、ストーリー展開が淡々とし過ぎている、と不遜にも感じていた。

実はそれは今でも感じているが、歳をとるというのは不思議なもので、こういう受け入れられなかったものの良いところも見えてくるようになるのだ。

小津安二郎の作品が観れるようになったのは、私は50代後半を過ぎてからなのだ。

人は成熟という事を趣味の広がりから知ることもあるということなのか。

前置きはこの位にして、まずはじめにこの作品が歴代の小津作品と違うのは、カラー映像作品である事だ。

ほとんどの小津安二郎監督作品はモノクロである。それはそれで良いのだが、全作品通してずっとモノクロは観るのがキツい。

そして、従来の小津作品との決定的な違いは、主演女優が、原節子から岩下志麻に変わっている事だ。

この作品は岩下志麻のデビュー作品として位置づけられている。

詳細は作品に譲るが、岩下志麻の初々しい美しさが全編に映し出される。圧巻は最後だ。とにかく、美しくて素晴らしいのである。

ここでも小津安二郎は、女性を美しく輝かせる事のできる監督なのだ。

その女性の秘めている可能性や魅力を最大限尊重して、引き出している。

かつて原節子もそうであったように。

そしてこの作品の凄さは、実は小津安二郎の女性たちの変化と男性の反応パターンについてさらりと描いていることだ。

すなわち、これからの男女のあり方を示唆しているのだ。

「東京物語」もそうだったが、家族や男女関係のあり方を戦前から戦後の時代の変化に日常生活の中に描いている。

どういうことかというと、この映画の主人公の笠智衆は小津安二郎監督作品の常連だが、今回も穏やかな初老男性を演じている。

この主人公にまた、娘がいるのだ。

小津安二郎作品では「晩秋」でも定番の年老いた父親と母親の不在、父を気づかう娘の結婚というモチーフが繰り返される。

この作品がそれまでと少し違うのが、女性たちがアサーティブなコミュニケーションをするのだ。キチンと自己主張を行っている。

これに反して、男たちのコミュニケーションが受け身で、ドラえもんののび太のようにあたふたとしているのだ。佐田敬二(中井貴一のお父さん、当時のイケメン俳優)が好演している。

戦後、女性とナイロンが強くなったと言われた頃である(ナイロンストッキングのこと)。

何が言いたいかというと、その後1970年代に世界中で起きた、第2波のフェミニズムによる女性たちの変化と、それについていけない男性と適応していく男性に分けられていく状況を先取りして展開させている事だ。

(この映画は1962年の上映で、今から61年前、ちなみに私と同い年なのだ。)

コミュ障の男性とキラキラと輝く女性たちのコミュニケーション格差とついていけない男性像という関係性が、既に展開させている事だ。

これは、現在に連なる男女のあり方、世の中の変化を既に小津安二郎は読み取っていたといえる。

もしかするとこれも海外で評価された一因かも知れない。

「東京物語」で加速する東京一極集中的な日本の価値観の変化と地方の実家の親との関係性の希薄化、核家族の崩壊を描いた小津安二郎監督は、本作品では、男女のジェンダーや平等の行く末を嗅ぎ取っていた。

「秋刀魚の味」の笠智衆は元海軍の駆逐艦の艦長である。それが戦後は会社の管理職に従事しているが、船の上は完全に階級社会なので、その船では艦長に逆らえる人はいないのだ。ましてや大日本帝国海軍の軍人である。戦後とはいえもっと威張っていてもおかしくない。

笠智衆が劇中に戦時中はどの様な地位にいたのかは、部下に語らせているが、艦長という絶大な権力者だったのである。

それが一転して、戦後は会社で部下の女性にも退職の気遣いを怠らない気の利くおじさんになっているのだ。

社会や人間関係の変化にうまく適応しようとしている。

しかしながらそのたまった気持ちは、バーのママさん(初代ムーミン声優の岸田今日子)に駆逐艦時代の部下(黒澤明の七人の侍の加藤大介)と軍艦マーチ(海軍のテーマ曲、パチンコ店でかかっていたやつ)のレコードを聴くことで、発散している。

そして娘の結婚には、お見合いの紹介を知り合いに頼んでもいる。娘の幸せのために自分の犠牲は厭わない。

そこでは一貫してぶれない。

令和5年、2023年の今、女性たちの求める優しくて気の利く、相手に気遣いのできるイメージにこたえられない男性たちは、「転生モノ」にみられるように、一発逆転を狙うか、ジブリの「千と千尋の神隠し」のカオナシの様に、援助を続けて拒絶されるとキレるしかない。

その有り様を小津安二郎監督が描写しながら、解決法の提示もしている。

それは「見守る」という事だ。

温かみを持ちながら、その女性の未来を信じて見守るポジションに居続ける事だ。

直接的に上から目線で指示をせずに、間接的にその女性たちの気持ちを確かめながら、説得を繰り返す。穏やかな口調と優しい雰囲気を絶やさず伝えている。

陰ながらの助力を惜しまない。

小津自身が、多分にこの様な姿勢で女性たちを輝かせたのではないだろうか。

原節子も他の小津作品では、耐える事も演じながら、意見を述べている。

そして小津は、原節子を美しく撮影するプロフェッショナルとして、貴重な作品を輩出している。

もしかしたら、男性も女性も真の平等を行うことが、小津安二郎の目指した未来なのかも知れない。

それがこの映画では全く表れない「秋刀魚の味」みたいに庶民的でどの家庭でもあじわえる、美味しいものになれば良いと。

小津安二郎はとんでもないフェミニストである。

そして映画監督という最高権力者でもあった。

多分、良い男で、モテモテだったのではないだろうか。

芥川賞「ハンチバック」

先月、芥川賞受賞作品の「ハンチバック」を読んだ。

久しぶりにパンチのある作品を読めた。

作者と主人公は重度の障害を持っている。いわゆる当事者である。

背骨の湾曲があり、放っておくと肺が片方潰れてしまうのだ。

それと筋肉の神経系にも障害があるために、手足を動かすことに差し障りがあるのだ。

そのために、電動車いすやベッド上の生活環境が主であるけれども、そればかりだと筋力が低下して動けなくなるので、時々歩いたり、イスやベッドから降りたりしないといけない。

しかし、それも転んでは骨折してしまうので転ばないように歩行しないといけない。

そういった環境で主人公が何をしているかというと、執筆活動を続けているのだ。

そしてその内容や生活の中から来るのが「怒り」である。

作品はいきなり、ハプバーと呼ばれる、男女がお互いの性行為を見せ合う場所の体験記の描写から始まる。

これは主人公のバイト(執筆活動)として行われているのだ。もちろん空想で書いている。

執筆には、負担のかからないiPad miniが使われている。

作品の始めから、カッコつきの安易な「平等」をえぐるように投げかけている。

障害があろうとなかろうと、性行為への関心と期待、そして女性として受胎と妊娠中絶したいという気持ちを各所に表現する。

すなわち「平等」には、中絶する事も含めた上で自由を求めているのだ。

また、筆者は読書家達の安易な紙の本礼賛をも「読書のバリアフリー」のために簡単に否定している。

主人公にとってみれば、重い紙の本を読むために、首を支えて頭痛はひどくなり、本のページをめくるために重い本を持つことにより、肺の潰されそうな痛みをかんじると。

これらは著者の実体験なので、説得力がある。

この作品では、怒りやネガティブな語り(ナラティブ)を著者は隠さない。その率直に表現する姿勢は、快哉を叫びたくなるほどだ。選考委員達は表現の差こそあれ、選考理由に圧倒的な支持を伝えている。

そもそも、人はネガティブな思いや辛さを抱えて生きている。

そして我々は偽善者の様にそれを隠して振る舞う。そして偽善も長く続けば、いつしか「善」になっている。

筆者はこの様に振る舞うすべを持ちながらも自身の偽善を大事にして、攻撃を起こす。

iPad miniを武器に、どんな表現活動を行うのか、これからが楽しみな作者である。