居場所と自殺予防

歌舞伎役者が自殺未遂事件を起こした。両親とも話し合い、一家心中とも報道されている。

もちろん、内容は不明だし、伝えられていること以外に色んな事情があると思う。

しかし、ここで扱うのはそのことではなく、この歌舞伎役者とある有名俳優が親友であるという事である。

それは歌舞伎役者は何らかの事情で追い詰められていたと思われるが、親友の有名俳優に相談できなかったのか、という事だ。

そもそも自殺が報道されると『そうなる前に相談して欲しい』等の締め括りが慣用句のように使われて終わることが多い。

しかしながら、自殺を考える段階まで追い込まれているという時には、何かに追い立てられるような焦りと不安で、「視野狭窄(しやきょうさく)」と呼ばれる状態に陥っている。

その状態では、周りが見えなくなり「希死念慮(きしねんりょ)」という死ぬことしか考えられない状態にはまり込んでしまっているのだ。

ここに至っては、死ぬことを回避するには、アディクションといわれる依存症か入院等しか方法が無くなっている位に追い込まれているのだ。

『相談して欲しい』とは、まわりから見れば確かにそうだが、それにはその人が相談しても良いかと思える様な『居場所』が不可欠なのだ。

それでは、「居場所」とは何か。

ここで居場所とは、ネガティブな気持ちや後ろ向きな発言、考えが受け止められるような人間関係のリアルな営みの場をいう。。

明るくて、ポジティブで前向きなやり取りは、居場所で無くてもできる。

しかしながら、人間の業の深い(立川談志)話ができる関係性のある場所が、メンタルヘルスには必要なのだ。

そしてそのためには、さらに雑談がリアルに飛び交っている事が構成要素となる。

不思議に思うかも知れないが、一見どうでも良い雑談に見えながら、その人がそれぞれ受け入れられて、そこにいることを尊重されて、期待される事が必要なのだ。

そういった人々のいる雰囲気がある場所が大事なのだ。

歌舞伎役者と有名俳優の様に、「親友だから何かあったら相談して」というのは現実には何の歯止めにもなっていない事が多い。

それよりも用事もなく、話したいことも無いけど雑談して、人が集まることによって、ポロッと「実は、」と本音が話せることもある。

よしんば話せなくても、自分の気持ちに気づくことも多い。

皆、同じように辛くて、みじめで、自分のやり切れない気持ちを抱えて生きていることを、目の前の誰かの発言から気づかされるのだ。

そしてその時に、自分の気持ちを話せなくても、自分一人ではない事に気づくこともある。

これがミーティングを居場所にする大事な意味である。

夏の終わり

今年の夏は暑い。例年ならそろそろ涼しくなるはずだが、いまだに全くその気配が無い。

メンタルヘルスの視点から、毎年心配なのは、この時期の児童の自殺の話である。9月1日前後に自殺の特異日があるといわれている。

そもそも学校が居場所になっている中では、その子にとっては居場所への参加プレッシャーがある限り登校圧力が高まる。日本では学校化された社会構造が優位なので(会社も入社式で4月から始まるし、スーツや行動規範などの同調性が学校の様に求められる。)学校に行けない事は、家族にとっても、本人にとっても、そういった社会構造から転落する恐怖を伴いがちだ。

そのために、学校以外の選択肢を持つ事が大事ではあるのだが、所属を変えるという事は簡単ではなく、所属を失う事なので、とても不安感を伴いがちだ。

そこでコロナの時に何があったかというと、2020年5月の緊急事態宣言の発出前から、学校の登校が無くなった。その時に何が起きたかというと、4月の新学期に増加する自殺者が減少した。その後、6月に登校が再開されると、増加してしまったのである。

「自殺」というと極端に思えるかもしれないが、コロナ禍という緊急で例外的ではあったが、少なくとも登校しない事が自殺の減少に役に立った可能性があるのだ。言い方を変えると、「学校に行かなくて良い」という強いメッセージで当時は救われた児童がいたということではないだろうか。

強い不安感ややる気が出ない時に無理して登校して「自殺」を考えるくらいなら、一旦立ち止まることも選択肢の一つになると良いと私は思う。しかし、居場所に所属できない事を罪悪感に捉えてしまうのはあるので、一旦それを脇に置いて時間を過ごせる「横向き」な選択も必要では無いであろうか。自分の居場所を見つけるまで、横向きで良いと誰かにいってもらえると楽になる児童がいるかも知れない。