実は小津安二郎はよく知らない監督だ。もちろん、彼のあまりにも高い評価は知っている。
しかしながら、以前は正直いって、作品を観てもあまり面白いと思わなかった。むしろ退屈で、同時代の黒澤明の作品の方が分かりやすくて、観やすかった。
例えば超有名な「東京物語」もそうだが、ストーリー展開が淡々とし過ぎている、と不遜にも感じていた。
実はそれは今でも感じているが、歳をとるというのは不思議なもので、こういう受け入れられなかったものの良いところも見えてくるようになるのだ。
小津安二郎の作品が観れるようになったのは、私は50代後半を過ぎてからなのだ。
人は成熟という事を趣味の広がりから知ることもあるということなのか。
前置きはこの位にして、まずはじめにこの作品が歴代の小津作品と違うのは、カラー映像作品である事だ。
ほとんどの小津安二郎監督作品はモノクロである。それはそれで良いのだが、全作品通してずっとモノクロは観るのがキツい。
そして、従来の小津作品との決定的な違いは、主演女優が、原節子から岩下志麻に変わっている事だ。
この作品は岩下志麻のデビュー作品として位置づけられている。
詳細は作品に譲るが、岩下志麻の初々しい美しさが全編に映し出される。圧巻は最後だ。とにかく、美しくて素晴らしいのである。
ここでも小津安二郎は、女性を美しく輝かせる事のできる監督なのだ。
その女性の秘めている可能性や魅力を最大限尊重して、引き出している。
かつて原節子もそうであったように。
そしてこの作品の凄さは、実は小津安二郎の女性たちの変化と男性の反応パターンについてさらりと描いていることだ。
すなわち、これからの男女のあり方を示唆しているのだ。
「東京物語」もそうだったが、家族や男女関係のあり方を戦前から戦後の時代の変化に日常生活の中に描いている。
どういうことかというと、この映画の主人公の笠智衆は小津安二郎監督作品の常連だが、今回も穏やかな初老男性を演じている。
この主人公にまた、娘がいるのだ。
小津安二郎作品では「晩秋」でも定番の年老いた父親と母親の不在、父を気づかう娘の結婚というモチーフが繰り返される。
この作品がそれまでと少し違うのが、女性たちがアサーティブなコミュニケーションをするのだ。キチンと自己主張を行っている。
これに反して、男たちのコミュニケーションが受け身で、ドラえもんののび太のようにあたふたとしているのだ。佐田敬二(中井貴一のお父さん、当時のイケメン俳優)が好演している。
戦後、女性とナイロンが強くなったと言われた頃である(ナイロンストッキングのこと)。
何が言いたいかというと、その後1970年代に世界中で起きた、第2波のフェミニズムによる女性たちの変化と、それについていけない男性と適応していく男性に分けられていく状況を先取りして展開させている事だ。
(この映画は1962年の上映で、今から61年前、ちなみに私と同い年なのだ。)
コミュ障の男性とキラキラと輝く女性たちのコミュニケーション格差とついていけない男性像という関係性が、既に展開させている事だ。
これは、現在に連なる男女のあり方、世の中の変化を既に小津安二郎は読み取っていたといえる。
もしかするとこれも海外で評価された一因かも知れない。
「東京物語」で加速する東京一極集中的な日本の価値観の変化と地方の実家の親との関係性の希薄化、核家族の崩壊を描いた小津安二郎監督は、本作品では、男女のジェンダーや平等の行く末を嗅ぎ取っていた。
「秋刀魚の味」の笠智衆は元海軍の駆逐艦の艦長である。それが戦後は会社の管理職に従事しているが、船の上は完全に階級社会なので、その船では艦長に逆らえる人はいないのだ。ましてや大日本帝国海軍の軍人である。戦後とはいえもっと威張っていてもおかしくない。
笠智衆が劇中に戦時中はどの様な地位にいたのかは、部下に語らせているが、艦長という絶大な権力者だったのである。
それが一転して、戦後は会社で部下の女性にも退職の気遣いを怠らない気の利くおじさんになっているのだ。
社会や人間関係の変化にうまく適応しようとしている。
しかしながらそのたまった気持ちは、バーのママさん(初代ムーミン声優の岸田今日子)に駆逐艦時代の部下(黒澤明の七人の侍の加藤大介)と軍艦マーチ(海軍のテーマ曲、パチンコ店でかかっていたやつ)のレコードを聴くことで、発散している。
そして娘の結婚には、お見合いの紹介を知り合いに頼んでもいる。娘の幸せのために自分の犠牲は厭わない。
そこでは一貫してぶれない。
令和5年、2023年の今、女性たちの求める優しくて気の利く、相手に気遣いのできるイメージにこたえられない男性たちは、「転生モノ」にみられるように、一発逆転を狙うか、ジブリの「千と千尋の神隠し」のカオナシの様に、援助を続けて拒絶されるとキレるしかない。
その有り様を小津安二郎監督が描写しながら、解決法の提示もしている。
それは「見守る」という事だ。
温かみを持ちながら、その女性の未来を信じて見守るポジションに居続ける事だ。
直接的に上から目線で指示をせずに、間接的にその女性たちの気持ちを確かめながら、説得を繰り返す。穏やかな口調と優しい雰囲気を絶やさず伝えている。
陰ながらの助力を惜しまない。
小津自身が、多分にこの様な姿勢で女性たちを輝かせたのではないだろうか。
原節子も他の小津作品では、耐える事も演じながら、意見を述べている。
そして小津は、原節子を美しく撮影するプロフェッショナルとして、貴重な作品を輩出している。
もしかしたら、男性も女性も真の平等を行うことが、小津安二郎の目指した未来なのかも知れない。
それがこの映画では全く表れない「秋刀魚の味」みたいに庶民的でどの家庭でもあじわえる、美味しいものになれば良いと。
小津安二郎はとんでもないフェミニストである。
そして映画監督という最高権力者でもあった。
多分、良い男で、モテモテだったのではないだろうか。