芥川賞「ハンチバック」

先月、芥川賞受賞作品の「ハンチバック」を読んだ。

久しぶりにパンチのある作品を読めた。

作者と主人公は重度の障害を持っている。いわゆる当事者である。

背骨の湾曲があり、放っておくと肺が片方潰れてしまうのだ。

それと筋肉の神経系にも障害があるために、手足を動かすことに差し障りがあるのだ。

そのために、電動車いすやベッド上の生活環境が主であるけれども、そればかりだと筋力が低下して動けなくなるので、時々歩いたり、イスやベッドから降りたりしないといけない。

しかし、それも転んでは骨折してしまうので転ばないように歩行しないといけない。

そういった環境で主人公が何をしているかというと、執筆活動を続けているのだ。

そしてその内容や生活の中から来るのが「怒り」である。

作品はいきなり、ハプバーと呼ばれる、男女がお互いの性行為を見せ合う場所の体験記の描写から始まる。

これは主人公のバイト(執筆活動)として行われているのだ。もちろん空想で書いている。

執筆には、負担のかからないiPad miniが使われている。

作品の始めから、カッコつきの安易な「平等」をえぐるように投げかけている。

障害があろうとなかろうと、性行為への関心と期待、そして女性として受胎と妊娠中絶したいという気持ちを各所に表現する。

すなわち「平等」には、中絶する事も含めた上で自由を求めているのだ。

また、筆者は読書家達の安易な紙の本礼賛をも「読書のバリアフリー」のために簡単に否定している。

主人公にとってみれば、重い紙の本を読むために、首を支えて頭痛はひどくなり、本のページをめくるために重い本を持つことにより、肺の潰されそうな痛みをかんじると。

これらは著者の実体験なので、説得力がある。

この作品では、怒りやネガティブな語り(ナラティブ)を著者は隠さない。その率直に表現する姿勢は、快哉を叫びたくなるほどだ。選考委員達は表現の差こそあれ、選考理由に圧倒的な支持を伝えている。

そもそも、人はネガティブな思いや辛さを抱えて生きている。

そして我々は偽善者の様にそれを隠して振る舞う。そして偽善も長く続けば、いつしか「善」になっている。

筆者はこの様に振る舞うすべを持ちながらも自身の偽善を大事にして、攻撃を起こす。

iPad miniを武器に、どんな表現活動を行うのか、これからが楽しみな作者である。